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ひながた八

 教祖伝に次のようにあります。
同年七、八月頃、福住村へ道がつき、多くの人々が相次いで参詣して来た中に、針ヶ別所村の助造という者があった。眼病を救けられ、初めの間は熱心に参詣して来たが、やがて、お屋敷へ帰るのをぷっつりとやめて了ったばかりではなく、針ヶ別所村が本地で、庄屋敷村は垂迹である。と、言い出した。
教祖は、九月二十日頃から少しも食事を召し上がらず、
「水さえ飮んで居れば、痩せもせぬ。弱りもせぬ。」
と、仰せられて、一寸も御飯を召し上らない。人々が心配して、度々おすゝめ申上げた処、少々の味醂と野菜をお上りになった。こうして約三十日間の断食の後、十月二十日頃、急に針ヶ別所村へ出張る旨を仰せ出され、飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎を供として、午後九時頃、針ヶ別所村の宿屋へ到着された。
翌朝、教祖は、飯降、山中の両名に、
「取り払うて来い。」
と、仰せられた。早速、二人は助造宅の奥座敷へ乗り込み、祀ってあった御幣を抜いて二つにへし折り、竃(かまど)に抛(ほう)り込んで燃やして了った。
これは天理教における異端の一つです。異端というのは、内からの反対攻撃で、最初は信仰していても、教祖の教えを曲解して教祖の教えと違うことを唱えることです。
この時、教祖は三十日の断食をしました。これは助造の謀反に対して、厳しい態度で理非曲直を正すための決意を表していると思われます。
私たちも、長年信仰していても、自分に都合の悪いことは勝手に解釈して、謀反とはいかないまでも、教祖の教え通りの信仰をしていない時があるのではないでしょうか。お互いに気を付けたいものです。
教祖は三度長い断食をされました。その一つが教祖が七十五歳の時で、七十五日の間、穀気を一切断って、火で炊いたものは何一つ召し上らず、たゞ水と少量の味醂と生野菜とを召し上るだけでありました。断食を始められてから三十余日経った頃、約四里の道程を、若井村の松尾市兵衛宅へ歩いて赴かれ、いとも軽ろやかに、速く歩かれるので、お供の者は随いて行きかねる程でありました。十余日間の滞在中も、穀気は一切召し上らなかったのに、お元気は少しも衰えず、この七十五日の断食の後、水を満した三斗樽を、いとも楽々と持ち運ばれた、という事が教祖伝に記されています。まさに月日の社だから出来ることだと思います。

 

 

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