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ひながた二

 教祖伝に次のようにあります。
嘉永元年、教祖五十一歳の頃から、
「お針子をとれ。」
との、親神の思召のまに/\、数年間、お針の師匠をなされた。憑きものでも気の違いでもない証拠を示させようとの思召からである。
又、秀司も、寺子屋を開き、村の子供達を集めて、読み書きなどを教えた。
その頃、お針子の中に、豊田村の辻忠作の姉おこよが居た。その縁から、忠作の仲人で、嘉永五年、三女おはるは、櫟本村の梶本惣治郎へ嫁入った。
これは、内からの「にをいがけ」ではないかと思います。逆に個別訪問や神名流しは、外に向かってのにをいがけだと思います。
嘉永六年、夫善兵衛様の出直しと云う悲しい出来事の後に、教祖はこかん様を浪速の町に出されました。これが天理教の神名流しの始まりです。
教祖がお針の師匠をなされたり、秀司様が寺子屋を開かれたのも、それによって親しい人を作り、新たな人間関係を作ったのではないかと思います。
教祖伝にも「六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を編み、糠袋を縫うては、好んで近所の子供逹に与えられた。」と記されているように、教祖は小さいころから裁縫が得意でしたので、中山の家のみきさんならと、周りの人たちはこぞって裁縫を習いに来たと思います。
布教の方法として、仕事をしながら、おみちの信仰のすばらしさを伝えることがあります。得意なことを通して新たな出会いを作り、日々の生活の中で誠真実の心で通ることにより、なるほどの人と慕われる。教祖がお針の師匠をなされたのは、そのひながたではないでしょうか。
教祖のお針子の中に辻忠作さん(後に教祖の高弟の一人となる)の姉おこよさんがいました。おこよさんは、教祖の三女のおはるさんと梶本惣治郎さん(この人も後に教祖の高弟の一人となります)との縁を作りました。
この出会いは後々お道の上に大きな事となって現れます。のちに初代真柱となる眞之亮様は梶本惣治郎さんとおはるさんの三男として生まれられたのです。
教祖は、このことを通して、出会いの大切さを教えられたのではないでしょうか。出会いのひながたを示されたのではないでしょうか。

 

 

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