グーグル検索
Google
WWW を検索
「あぶらかわ」を検索
メニュー

教祖伝を拝読して その十

 明治十四年四月八日、長年教祖と苦労を共にされた秀司様が出直されました。
秀司様は如何にしたら教祖が警察に拘引されなくてすむか、みんなが自由に参拝することが出来るようにするにはどうしたら良いか、と心を砕いておられました。
そして教祖が反対されるのを振り切って、時には神道の吉田神祇官領の認可を受け、時には金剛山地福寺に願い出るなど、応法の道を急がれました。
足が悪いのに、長い道のりを歩かれても、親に苦労させたくないと思う心は、分かるような気がします。
でも、これらは教祖の思召しに適うものではありませんでした。
そして、秀司様が出直されてから、官憲の干渉はいよいよ激しくなり、教祖はたびたび監獄に御苦労下さることになるのです。
教祖はたびたび、「かんろだい」についてお話下さっていましたが、明治六年、飯降伊蔵様に命じてかんろだいの雛型を作られました。これは、高さ約六尺、直径約三寸の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ約三寸の六角の板の付いたものでありました。
このかんろだいの雛形は、出来てから暫く倉に納めてありましたが、明治八年ぢば定めの後、こかん様身上のお願づとめに当り、初めて元のぢばに据えられ、以後、人々は礼拝の目標としました。
かんろだいは、人間創造の証拠として元のぢばに据え、人間創造と成人の理を現わし、六角の台を、先ず二段、ついで十段、更に一段と、合わせて十三段重ねて、その総高さは八尺二寸、その上に五升入りの平鉢をのせ、天のあたえたるぢきもつを受ける台である。
教祖は、明治十四年の初めからかんろだいの石普請を急き込まれました。この年の五月には石出しが行われ、おやしきは大勢の人で賑わいました。
秋頃には二段まで出来上がましたが、その直後石工が突然居なくなり、かんろだいの石普請は頓挫する事となりました。
そして、明治十五年陰暦三月二十五日、二段まで出来たかんろだいは、官憲の手によって取り払われてしまったのです。取り払われた後は、小石が積まれてありました。人々は、綺麗に洗い浄めた小石を持って来ては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍らしい守護を頂いたそうです。
現在の雛形かんろだい(木製)は昭和九年に初めて据えられ、以後定期的に取り換えられています。
みかぐら歌の第三節、「いちれつすますかんろだい」は、かんろだいの取り払い後、「いちれつすましてかんろだい」に改められました。

 

 

プリンタ用画面
友達に伝える
今月の言葉
ゆめちゃんのどうして日記
ナオじいちゃんの本日も晴天なり
カメ吉先生の修養科物語
心の処方箋
新着リンク