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教祖伝を拝読して その八

 明治十年、教祖は三曲の女鳴物を教えられました。最初にお教え頂いたのは、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、控は増井とみゑでした。それは教祖伝逸話篇の、五十二 琴を習いや から 五十五 胡弓々々 までにその逸話が書いてあります。
明治十年二月五日(陰暦、九年十二月二十三日)、たまへ様が、秀司様の一子として平等寺村で生れられました。このたまへ様は、後初代真柱夫人となられる方で、教祖の直系のお孫さんです。
おふでさき注釈には次のように書いてあります。
秀司先生の庶子お秀様は、六年前即ち明治三年三月十五日に出直された。このお秀様の魂は元々深いいんねんがあるので、親神様は早くいんねんある元の屋敷へ生まれ出さしたいと、その魂をしっかり抱きしめておられたが、時旬の来るのを待って秀司先生の奥様まつゑ様に宿し込まれ、出産せしめられる事を予言せられたものである。こういう深い親神様の意図を知らぬそばな人々は、深い真意の程を知らず、何事かよく分からぬままに軽く聞き流していたのであるが、親神様には、今度生れる子供は女の子である事まで分かってあるから、出産前から「たまへ」という名前まで付けて置かれたのである。これは、親神様のお働きが自由自在である事を実証せられたものである。そして、このような自由自在を見たいと思うならば、親神様の教えられるおつとめの手をしっかり覚えて勤めてくれよ、と、仰せられたのである。
教祖は以前から「講を結べ」と仰せられていましたが、明治十一年四月頃、秀司様を講元とする眞明講が結ばれました。小さいながらも、親神のお急込み通り、人々の喜びを一つに結ぶ講が出来て居たのです。世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎で、講中の人々は、近在一帯の村々に及びました。
そして、この眞明講を皮切りに次々とこうが結ばれてゆき、明治十四年頃には、講の数は、二十有余を数えるようになりました。大和国の天元、誠心、積善、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等であります。
明治十一年頃から、金米糖を御供として渡されました。それ以前は、はったい粉をお渡しくださいました。はったい粉とは、大麦・裸麦を炒って焦がし、挽いて粉にしたものです。現在は金平糖に代わりお洗米の御供になっています。

 

 

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