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教祖伝を拝読して その七

 明治七年陰暦十月の或る日、教祖は、中田儀三郎、松尾市兵衛の両名に対して、
「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」
と、仰せられました。これが高山布教の始まりです。
 大和神社の神職たちは、祭神は、記紀に記された通りである。と、滔々と述べ立てたが、守護の点については一言も答える事が出来なかったのです。
 また、山村御殿での奈良県庁社寺掛の取り調べがあり、教祖はいそいそと出掛けられました。
 この後に、県庁はお屋敷に参拝人が出入りしないよう、厳重に取り締まり始めました。
 明治七年十二月二十六日(陰暦十一月十八日)、教祖は、初めて赤衣を召されました。それは自ら月日のやしろであることを明らかにする為でした。
 それからは常に赤衣を召され、そのお召下ろしを証拠守りとして、弘く人々に渡されました。これは、一名々々に授けられるお守りで、これを身につけて居ると、親神は、どのような悪難をも払って、大難は小難、小難は無難と守護されるのです。
 証拠守りは、十五歳までに頂かれる時は、ほうそう除けの子供のお守りを、十五歳を過ぎたら、悪難除けの大人のお守りを頂くことが出来ます。
 明治八年六月二十九日昼頃、かんろだいのぢば定めが行われました。
 教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がびたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられました。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、櫟枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた処、皆、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止まりました。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなりました。こうして、かんろだいのぢばが、始めて明らかに示されました。
 明治八年夏の頃、永年、教祖と艱難苦労を共にしたこかん様が身上障りとなり、容体は次第に重くなりました。
 こかん様は魂のいんねんのある方で、教祖は神一条の任に就かせようと思召されて居ました。しかし、こかん様は姉のおはる様の出直し後、梶本家の後添いにと勧められ、この理と情との間に悩んだのでした。
 そして、九月二十七日(陰暦八月二十八日)、こかん様が三十九歳で出直しました。
 教祖は、この身上の障りを台として、人間思案に流れる事なく、どこ迄も親神の言葉に添い切り、親神に凭れ切って通り抜けよ、と懇々と諭されています。

 

 

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