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子供につないでいく

 おみちの信仰は自分だけ信仰していれば良い、と云うようなものではありません。親から子へ、子から孫へ伝えていって、末代にかけて信仰する本物の信仰なのです。
 でも、いくら自分が熱心に信仰していても、子供が同じように信仰してくれるとは限りません。
 おふでさきに
 をやこでもふうくのなかもきよたいも
   みなめへくに心ちがうで  五号8
と、あります。
 血のつながった親子兄弟でも考え方は違います。それは同じ環境に居ても受け取り方はそれぞれに違うからだと思います。
 人間は何でものを見るのでしょうか。もちろん目ですね。でも、目の先には脳があります。目から来た情報を脳が判断して、人の顔の判別をしたり、色や形を判断したりします。
 でも、知り合いの人とすれ違って、同じように見たはずの二人が居て、一人は見たけどもう一人は考え事をして気が付かなかった、と云うようなことは有りませんか?
 どちらも目で見てはいるのですが、一人は記録しなかった(ビデオカメラにたとえると録画しなかった)のだと思います。
 また、同じ人を見て、一人は髪型や服装を覚えているが、もう一人は体型の変化に気付いた、と云うようなことは有りませんか?
 人間は目で見ているように思いますが、脳イコール心のフィルターで見ているのです。心のフィルターは家庭のしつけや教育でも変わりますが、最も身近な親の後ろ姿を見ることによっても変わります。
 話を元に戻しますが、親が子供に信仰を伝えたいならば、自分がしっかりと信仰することだと思います。それには、子供を教会に連れて行くことです。月次祭に子供を連れて行ったら教会に迷惑が掛かる、と云う心配はいりません。教祖の逸話に次のような話があります。
 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衞が、当時五、六才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達摩を思い出したものか、「達摩はん、達摩はん。」と言った。それに恐縮した四郎兵衞は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで。」と、仰せられた。このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。  教祖伝逸話篇117
 このように、おぢばはもちろん教会も子供達が来る事を待ち望んでいます。お父さんお母さんが忙しくてだめなら、おじいちゃんおばあちゃんがお孫さんを教会へ連れて来てほいのです。そして、年に一回は子供さんやお孫さんと一緒におぢばに帰ってほしいのです。

 

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